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いまはもうない祖母の家の話を聞いてくれ

ネサフして見かけたブログの記事がとても良くて、私もおばあちゃんの家について書き残しておこうと思った

take-it.hateblo.jp

 

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1階はこんな感じだった

おばあちゃんの家は気仙沼にあった

ちょっと盛り上がった山の中腹にある2階建ての一軒家。

畳敷きの居間、フローリングの玄関、16畳ほどの大広間、風呂、なぜか男女別の和式トイレ(ボットン便所である)、急勾配の階段と、その下スペースを活かした物置、2階には6畳ほどの部屋が2つ。庭が広くて、カリンの木やシャクナゲなどたくさんの樹木と花を植えていた。祖母は植物が好きで、絵手紙がうまかった。あと裏庭には駐車場があって、トタン張りの物置もあった。この物置は庭いじりの道具などを入れていた。

 

玄関を入るとすぐに6畳ほどの居間がある。大きなテレビと掘りごたつのある部屋で、祖母の家に来ると一日の大半をここで過ごす。掘りごたつ、良い。あいつは最高だ。こたつの中で足が伸ばせるし肩まですっぽり潜ることもできる。布団の下に広がる秘密の地下空間のようで、良い。浪漫がある。私と弟が喘息持ちだったので、祖母は掘りごたつの下にホコリが溜まらないよう、毎日掃除機を掛けてくれていた。

 

居間に入ってすぐ左手の引き戸をあけると、キッチンがある。白いフリルみたいな壁紙に、木目調のフローリング。大きな食器棚が3つ、大きな冷蔵庫が1つ、業務用の冷凍庫が1つ、電子レンジが乗っている調味料棚が1つ、炊飯器を載せた低めの食器棚が1つ、そして大きなダイニングテーブルが1つ。こうして書き出してみると、なかなか広いキッチンだったと思う。ダイニングテーブルは4~6人掛けの大きなもので、立派な木製の椅子が4脚用意してあったが一度も使ったことはない。ご飯はいつも居間の掘りごたつで食べていた。

 

冷凍庫があるのは、気仙沼という土地柄、知り合いから海産物を大量にいただくことが多いからである。祖母は当時一人暮らし、昔は母と二人暮らしだったので、一度に消費できる量が少ない。もちろん多い分はご近所にもお裾分けするのだが、それでも余るものは小分けにして冷凍庫にしまっていた。業務用の冷凍庫といっても、あれだ、駄菓子屋でアイスを詰めて売っているようなサイズのものより一回り小さいぐらいのやつだ。祖母は私が泊まりに来ると、その冷凍庫にチューチューアイスやうずまきソフト、パティーナ、リンクルなどのアイスを代わる代わる用意してくれていた。

 

キッチンに窓はあったが、目と鼻の先に隣家があって風通しは悪いし太陽は1ミリも当たらなかった。キッチンの北東の隅にコンクリートの小さな下がりがあって、そこには洗濯機が置いてあった。というわけで、キッチンは水気が多く日当たりも悪い。いつもどんよりとした雰囲気があり、正直私は苦手だった。しかし東北という土地柄か、ゴキブリは一度も見たことがない。幸いである。

 

一度居間に引き返して玄関まで戻ると、家の奥に続く廊下がある。真っすぐ進んで左手に大広間、右手に風呂・洗面所。さらに進んで突き当たると右手にトイレ、左手に急勾配の階段がある。階段の下には扉付きの物置があり、掃除機などがしまわれている。

 

まずは大広間から行こう。8畳二間続き、畳敷きの大きな部屋である。真ん中には襖があって二部屋に仕切ることができる。手前の部屋には神棚がある。奥の部屋には仏壇…ではないが、祖母の大切な人(もう亡くなっている)の写真を飾る場所があり、いつもお茶を供えていた。

 

この大広間は、私が泊まりに行くと寝床になったり遊び場になったり習字教室になったりする。祖母は習字の師範で、とにかく筆がうまいので私は書初めの宿題がある度に習いに行ったのである。残念ながら私にも弟にも習字の才能はなく、むしろ硬筆のほうが好きだったりするのだが…。

 

16畳というのは子どもにとってべらぼうに広い空間なので、格好の遊び場である。おままごとなら大豪邸だしクラッシュギアベイブレードのバトルもできる。なんなら十字鬼ができたりする。あとお盆とか法事とかで気仙沼に親戚が集まったときは、この大広間でご飯を食べたこともある。あれだ、サマーウォーズの晩飯の様子とそっくりだ。

 

そして水回りだ。洗面所は小さい。風呂はステンレス製の和式なので狭くて深い。祖母と5歳の私が入るともう一杯だ。タイルはカラフルで大きな豆を敷き詰めたみたいな模様で、私は正直好きじゃなかった。余談、祖母は胸がかなりグラマラスだったのだが、私の母親はかなりスレンダーである。弟に授乳する母を見て、ぜったい祖母のほうがおっぱい出るのにな……など考えていた頃もある。グラマラスな体型が遺伝しなかったのは、実はきちんと理由があったんだけどその話はまたどこかで。

 

トイレはなぜか男女別。どちらもボットン便所。21世紀にもなって偉大なる都会の皆様には信じられない話かもしれないが、祖母の家では2011年までぼっとん便所が現役であった。周りは水洗の所も確かにあったが……。まあ、水洗に直したところで正直何年使うかわからない、みたいなところがあったのだろう。私は潔癖気味なのでイオンやコンビニでなるべく用を足して帰っていたし、家のトイレを使うときは息を止めていた。わりと必死である。おとなになるというのは面倒くさい。

 

果たして、祖母の家はもともと祖母と母の2人で暮らしていたものなのだが、2人暮らしには不似合いなほど広い。なんと2階もある。

 

2階は6畳間が2つあって、部屋を結ぶ小さな廊下があって、そこに本棚があって、ブリタニカ百科事典が収められていた。なぜあの世代の人々はブリタニカ百科事典をこぞって買っているのか。あと日本文学大全みたいな文学集もあって、これはいま私の部屋にある。重い(笑)


あとは日本人形と布団があるぐらいで、あまり使っていなかった。泊まりに来ても寝るときは大広間だった。

 

さて、祖母の家の説明はだいたいこれで終わりなんだけれども。

私は幼い頃から常々、なんで祖母は一人暮らし(昔は母と二人暮らし)なのに家がこんなに広いのだろう?と思っていた。

その結論、どうやら、いつか母が結婚してもここに住めるようにと立派な一軒家を建てたらしい。でも母は地元で結婚すること無く仙台に嫁いでしまったため、祖母が一人であの広い一軒家に住むことになったのだそうだ。

 

いつか母とその家族と孫と、一緒に住もうと思っていた広い一軒家に、一人残された祖母のことを思うと、私はいつもしんどくなってしまう。片道2時間の距離、昔は気仙沼線で一本だったのだからもっと会いに行けばよかった。泊まりに行けばよかった。

祖母は穏やかで交友関係も広いので、友達や親戚がよく遊びに来ていただろうが、あんな広い家で、一人で過ごす年末年始はさぞかし寂しかっただろう。

 

実は私が小学生の頃に、父が気仙沼への赴任を命じられ、家族で向こうへ引っ越すという話もあった。でも既に父方の祖父母と同居していたせいか、気を使ったのか、結局その話は立ち消えになった。あのとき気仙沼に引っ越していたら、私はあの家に住んでいたのかも知れない。

 

私は祖母が60の頃に生まれた。祖母にとって私は初孫だった。祖母は私が生まれた日を境に、大好きだったタバコをきっぱりと止めた。「あんなにすっぱり止めるなんてね」と母が笑っていた。私は非喫煙者だが、タバコを止めるのはとても大変だと聞く。妊娠してもタバコが止められず悩む人もいると聞く。だから、誰かが私のためにタバコを止めてくれた、それだけで、「私、愛されてたんだな」と思う。この先私のためにタバコを止めてくれる人間なんて、後にも先にもおばあちゃんだけだろう。

 

そして祖母は私が19のときに亡くなった。東日本大震災のあと、2011年の6月ことだった。祖母の家は気仙沼にあって、皆さんも御存知の通り、気仙沼はあの震災で大きな被害を受けた町だ。親戚も、祖母の知り合いも家が流されるなどの被害にあっている。何ならよく行くケーキ屋や本屋、銀行にスーパーにも津波が押し寄せている。片浜屋やマイヤはいまも元気だろうか?「あざら」を売ってくれているだろうか?

 

祖母の方は、幸い家も体も無事だったが、未曾有の災害にとても心を痛めていた。家を流された親戚が、祖母の家に転がり込んできて、祖母は一生懸命世話をしていた。そういう無理がたたったのかもしれない。

 

祖母が倒れたという話を聞いたのは、私が山形で一人暮らしをしているときだった。気仙沼の大きな病院に入院していて、私は父と弟と一緒に病院へ駆けつけた。祖母は心臓が悪かったのである。母は以前からつきっきりで看病をしていた。私が会いに行ったその時、もうすでに祖母の意識はなく、顔や体はパンパンに膨らんでいた。私の知っている祖母の姿とはえらく異なっていて、異形の者のように感じて、怖くて、私は祖母の手を握ることができなかった。今でもこれを悔やんでいる。だから、その後父方の祖父が亡くなったときはその悔やんだ気持ちも込めて強く手を握ったという、少し情けない思い出がある。

 

その頃の私は、大学のサークルで造花を作ることにはまっていた。もともと友人に誘われたのがきっかけだが、私の家族は何かと植物や花が好きなので、花を贈って喜んでもらいたい気持ちもあり入部した。そのときサークルでは初心者向けに、アジサイの作り方をならっていた。祖母の家には大きな青いあじさいの株が植わっていた。祖母は花が好きだった。私はそれを思い出して、意識のない祖母を前に、「次はアジサイを持ってくるね」と話しかけた。まだ会える、意識は戻る、ちょっと具合が悪いだけ、次は両手に一杯の花を持って会いに来よう、そう思った。それから間もなく、祖母は亡くなった。

私は両手一杯に、溢れんばかりの菊の花を抱えた。アジサイは届けられなかった。

 

祖母は、自分の亡くなる時期を分かっていたのかもしれない、と思うこともある。
震災の後、祖母の無事を確認するため家に泊まりに行ったとき、祖母は「これを庶民ちゃんにあげるからね。可愛いでしょう」と幾つかの立派なブローチをくれた。
今まで新しいおもちゃや手作りのパッチワークをくれたことがあっても、祖母が身に付けていた装飾品の類を私に譲ることはなかった。震災を見て、なにか思うところがあったのだろうと解釈していたけれど、もしかしたら別の知らせが祖母の中にあったのかもしれない。

 

葬儀が終わった後は1年ほど掛けて、祖母の家を整理した。立派な食器棚と、日本文学全集、それからあのとき分けてもらったいくつかのブローチが祖母の形見である。祖母の家には食器や布団や工芸品などが山のようにあったが、どれも処分されたり他の親戚に分けられたりした。山のようにあったアルバムは、津波で家を流された親戚に分けたりした(と思う、多分)。

 

その後、住む人がいなくなった祖母の家は、取り壊すことが決まった。

 

いま、私の家には仏壇が1つある。

祖母の遺骨は何年か骨堂においてあったのだが

父親の計らいもあって、父方の祖父母と同じ墓に入った。本当は気仙沼にお墓もあったんだが、親戚との色々なあれがあって、祖母の希望もあってこういう形に収まった。私としては、すぐ大好きな祖母に会えるのでありがたい限りだ。

母から祖母についての話を聞くと、かなり大変な人生を歩んできたのだと後から知った。あのとんでもない包容力と「破顔」というべき笑顔の裏にそんな壮絶な話があるとは知らなくて、私はまごまごした。同時に、田舎とはいえ、女一人であんなに立派な一軒家を建てたことも尊敬する。

 

私は毎日、家を出る前に必ず仏壇を拝んでいる。そして祖母の姿を思い出す。

祖母の家はもうとっくに取り壊されて、家を流された親戚が住んでいる。

私はその光景を見たくなくて、未だにそこを訪れることができない。

 

いまでも私の中では、あそこに祖母の家があって、祖母がカツオのたたきを作りながら私を待ってくれている。

 

いつも、いつでも、夏休みが待ち遠しい。

真夏の昼過ぎ、焦げたアスファルトの坂を登ると、クリーム色の壁にえんじ色の屋根の一軒家があって、

「ばやばやばや、よく来たこと」と

満面の笑みで両腕広げて出迎えてくれる祖母の姿があるのだ。